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【後編】最近、ようやくカレーが美味しいと思えた話 〜当事者できょうだい児な私の自分語り〜


「ああ、やっぱりか…」と
「生まれてこなきゃよかった」

 成人発達障害を診ることができる病院は限られている。私が予約を取った病院は半年近く予約が取れないことで有名で、臨床結果も多数ある大きな病院。
 神の巡り合わせか、運良く一発で予約が取れた。その病院では、問診と生育歴と心理検査で確定診断が降りる。

 初診の日、生育歴を語る存在として、母に付き添ってもらった。当然ながら「しっかりした娘」な私が発達障害を抱えてるなんて信じたくない母。「違ったら違うって、お医者さんのお墨付きが出るんだし、お願いだから付き添って!」と、どうにか説得して病院へ。
 問診、生育歴、WAISという心理検査を受け…一発で「ADD(注意欠陥障害)」という診断が降りた。
 横で泣く母。

 私は「ああ、やっぱりか。今までできてなかったことって、障害に起因してたのか…」という気持ちと、障害は治らないという事実に「生まれてこなきゃよかったわ…」という絶望が混ざった気持ちでいた。


障害が分かったからこそ、
色んな人と会ってみた。

 診断が降りたのは三十路過ぎ。

 さて、どうする?

 自分で自分を客観視するなんて、不可能だから、とにかく今まで繋がりがあった人に会いまくってみた。
 そして、今まで無意識ながらに、人にかなり迷惑をかけていたこと、「私は発達障害なんです、だから仕方ないんです」という理屈が全く通じないこと、自分を理解してもらうには、相手や社会を理解しないと理解されないことに気付いた。
 そこからは、とにかく訓練。
 迷惑かけがちな忘れ物は、カバンがでかくなってもいいから、持ち歩く。最悪コンビニで買えるものはそれで対処する。
 人への連絡を億劫に感じて、誘われても無視したりしてしまっていたが、「アウトプットしないと何も伝わらず、むしろ悪印象」であることに気付き、必ず返事をする。断るときも、代案を出す。
 スマホのアプリを活用し、タイマーを使って過集中気味なことをストップさせたり、やらなきゃいけないことを期限を決めてその日には片付ける。
 どうしてもできないことは、人に頼る。ただ、頼った分だけ自分のできることでちゃんとお返しをする。

「死なない程度に生きること、人様に怪我をさせないこと、お金で解決できることはお金で解決。そのために働く」…ここまで自分の人生のハードルを下げてみた。

 これは今も訓練中だが、意識するようになって、人とのつながり方も付き合い方も、日常の困難もだいぶ緩和されてきた。


SNSで保護者の方と
子どもたちと出会って、
親のことを想う

 色々セルフ訓練をしてはいるが、ネットを漁っても、成人発達障害者に向けた衣食住の工夫方法や、恋愛や仕事といった悩みの解決法の情報があまりにも少ないことに気付いた。
「確かに正論だし、定型(健常者)の人はそれで解決するけど……発達障害が絡むとそれじゃ解決できないじゃん!」と思うことが多々ある。また、ADD/ADHDと自閉症スペクトラム、LDなどなど、発達障害は多岐にわたり、重複してる場合も少なくない。
 さらに言えば、30年以上健常者として生きてきたので、出来上がった「個性」もある。「私」に完全に符合する情報はネットや本だけでは見つからなかった。

 そこで、とあるSNSの保護者と当事者がいるコミュニティに参加してみた。そこには、当事者の悲痛な叫び、保護者の方の葛藤のスレがたくさん。
「ああ、私だけじゃないんだ」と思うと同時に、「私がやってきたや感じてきたことが誰かの役に立つかもしれない」と、色々発信していった。
 そうしていくうちに、「発達障害を持つお子さんの保護者の方々」と接する機会が増えた。療育のこと、子どもたちとの向き合い方、学校との交渉、ご近所付き合い、配偶者との教育方針の決め方。独身で心が「子ども」なままだった私にとっては目からウロコだった。
 ただでさえ、大変な子育て。そこに発達特性が加わったらその大変さは増していく。でも、私が出会った保護者の方々は、悲観してる暇があるなら、前を向く方々だった。その子が自立するために、親子でトライアンドエラー。色んな訓練方法や、それを実施してる機関で研鑽を積んでいく人たち。
 そんな方々とお子さんと当事者を交えたオフ会も何度か開いた。子どもたちの行動が、まるで幼い頃の自分を見るようだった。私には、子どもの頃、大人からかけてもらいたかった言葉や笑顔が分かる。子どもたちがワクワクした顔で私と遊んでくれるのがとても嬉しく、幼い頃の自分が癒されていくのを感じた。

 そして、そこで、自分の親のことを想う。ネットを漁っても自分に符合する情報を得られなかった私。
 当時はネットはここまで普及しておらず、ましてやSNSなんてものはなく、さらに言えば発達障害自体についてもまだ認知が薄かった。
 あの時の私の親は、もっともっと情報も頼れる機関もなく、暗中模索して、悩み苦しんでいたのだ。
 それでも、そんな中でも、私がお腹を空かせないようにと、カレーを作っておいてくれたのだ。


三十路を過ぎて、
弟と答え合わせ

 親のことに気付きながらも、なかなか感謝を伝えることができない私。そして、弟にはまだ、愛情を独り占めしてきたという羨望や嫉妬の気持ちがあった。
 障害診断も手帳取得も、書類が書けないながら悪戦苦闘してたのに、弟は手厚く親がケアしてくれてる。そんなことも、妬ましかった。
 所謂「きょうだい児」(障がいや病気をもった子の兄弟姉妹のこと)が抱える気持ちだろうと思う。

 数年前のある日、母以外の家族には私が発達障害を持っていることをオープンにしていなかったが、弟にオープンにした。
 場所は弟の「応接間」である彼が運転する車内。空間認知能力が高く、地図を丸暗記できて、車の運転が大好きな弟にとって、車の車内は乗せる人をもてなすための「応接間」だそうだ。
 その日は、当時弟が通院してた精神科に付き添った。弟は投薬されているわけでも、何か対処療法を受けてるわけでもなく、ただ、就労したくて、でも一般就労がどうしてもできなくて、障害者手帳の交付をされるためだけに、精神科に通っている。ただ、弟は発達障害に起因している可能性が高い「二次障害」を抱え、確かに苦しんでいた。生活リズムを整えるために朝起きて夜寝る努力をしていた。
 どうすれば、過去、人から受け取った酷い言葉に混乱せずにいられるのか、彼なりの方法で模索をしていた。

 ――それでも。
 実際就労支援の現場を見ると、
 酷い言葉を投げつけた、あの上司の言葉が、
 強く自分を否定された記憶が、
 どうすれば、誰かと関われるのかまるで分からない混乱が、
 想起されてしまうのだ。

 弟の口から「希死念慮」(自死を願う、自殺について考えること)という言葉が出た。

 「おねえちゃん、お母さんには言ったら責められる気がしたから言えなかったけど、本当は前の職場の上司に怒られた時、会社から飛び出したんだけど、本当はそのまま電車に飛び込んで死のうと思ってたんだ。生まれて来なければ良かったと思ったんだ。これ、希死念慮だよね?」

「自分が障害者だと、認めたくなかった。自閉症は男に多いと言うから、女に生まれれば良かったと思ったけど、そういうことじゃないと思ったんだ」

「今、やっと障害を受け入れられる気がしたよ。幼少期に早く自分で気付けてれば良かった」

 今まで、弟は私にはもちろん、母や父にもそんなことを自分の言葉にしたことがなかった。

 なんとか平静を装ったつもりだったが、弟の言葉に私は動揺した。
 小さい頃から、ずっと親の視線が向くのは弟。

 寂しくて憎くて羨ましかった弟。

 その弟が経験したたくさんの辛い経験や、そこから生まれた弟の心の傷が、痛かった。
 痛い、と心から思った。

 気付くことができなくて、ただ羨望の対象としてたことが、本当に情けなかった。タウンページくらいの厚さがある本で、自分の頬をひっぱたかれるような、そんな感覚。30年以上、妬み嫉みで視野を狭くし、弟のことをしっかりと見て感じてこなかったことに猛省した。

 当時の弟の主治医と話をした。そこの病院はそもそも、成人発達障害には対応しておらず、「児童精神科」に弟は通っていた。
 主治医の恐ろしいほど、事務的な口調。
 早口で話をどんどん進めていく。
 弟が何を言っていいのか分からなくなっているのを感じた。

 口だけは達者な自分が、「応接間」で聞いた話を元に弟の現状と、保護者の方々や当事者会で得た知識を元に、病院としてどこまで対応してもらえるのかを聞いた。
 結果、成人当事者に向けた行動認知や薬物療法、心理療法といったケアは対応しておらず、障害者手帳の交付や申請以外のケアは何もできないとのことだった。

 寝つきが悪く、辛い気持ちにフラッシュバックしていて、放っておいたら確実に鬱で動けなくなる状態だけど、今、寝ることと食べることはできているから、問題ないとのこと。

 私は、成人発達障害を診ることができる病院へ弟を転院させた。
 誰かが悪いわけじゃない。
 知識がないこと、知識を得られないことが問題だと強く強く思った。

 ネットを漁っても、自分に符合する情報が見つからなかったなら、あくまで私の経験してきたことを、発信すればもしかしたら誰かの気付きになるかもしれないと思った。
 弟は、言葉にするのが得意ではない。場面緘黙があることも自覚している。
 言葉にできないから、愚鈍なわけじゃない。
 言葉にならないから、辛くないわけじゃない。
 三十路をすぎて、振り返って、やっと始めた姉弟の人生の答え合わせ。弟の視点で見てきたこと、私の視点で感じたこと、それを共有するようになった。
 三十路過ぎても友達らしい友達ができなかった弟に、当事者や理解者を紹介し、今ではもう、私が付き添ったりしなくても友達と遊びに行ったりしている弟。
 もちろん、まだまだ距離感やパニックを制御できないところはあるが、それも、友達に指摘してもらい、弟なりに反省し、次に活かしている。
 社会との調和は、私も弟も長丁場。
 ゆっくりやっていきたい。


カレーを作ってみた。

 一人暮らしして、10年以上。カレーを作らなかった私。
 保護者の方々との出会い、弟との距離感。親への思い。まだまだ上手く片付けきれてはいない。
 自分へのケジメ(?)として、カレーを作ってみた。

 母のカレーは牛スジを圧力鍋で煮てトロトロにしてあって、ニンジンが嫌いな私のためにニンジンが入ってないカレー。

 そのレシピのまま、作ってみた。
 まぁまぁ味は悪くなかったが、母の味には全くかなわない。
 すごく美味しいカレーを、心を込めて母は作ってくれていたのだ。
 カレーの匂いだけで、幼い日の水曜を思い出してしまっていた私だが、今の私の年齢は、母が水曜日にカレーを作ってた頃の年齢になった。
 見過ごしてしまっていたが、そこには確実に「愛」があったのだ。

 まだまだ発達診断を受けて年数も浅い。
 これからも、試行錯誤は続いていく。
 だからこそ、周りにいる人々に感謝をしつつ、心を柔らかく、いろんな人と出会い成長していきたい。
 試行錯誤を繰り返し、それを共有し合い、「自分らしく社会と調和」する術を身につけていきたい。

 そして、「愛」の存在に気付き、たくさんの人が私の拙い人生の中に関わってくれているという「しあわせ」にも気付き、日々研鑽を積んでいきたい。
 そんなことを今、母から仕送られたカレーを頬張りながら思う。



【前編】最近、ようやくカレーが美味しいと思えた話 〜当事者できょうだい児な私の自分語り〜
http://blog-kabukimono.blogspot.jp/2016/09/12.html

投稿者:あっちゃん


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