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31歳でアスペルガー診断を受けた私がコミュ障克服の為にやっていた5つのこと

 私クルミは、31歳の時の診察で「アスペルガー障害」の診断を受けた。でも中学の頃から非定型特徴の自覚があったから、診断を受ける前から自分なりに色んな訓練をやってきた。
 そのどれもが大切で、意味のあることだったと思う。
 今回の記事では、そのやってきたことを説明する。

▼その1『一言も喋らない、なにもしない』

 中学二年生の頃、学校でのいじめ体験を通して自身の非定型を自覚できた私は、まずいじめ行為を受けてしまう状況を何とかしようと思った。
 自分は嫌われていること、日常的にいじめのような嫌がらせを受けてしまう事、その2つは理解できた。
 嫌われている事はどうしようもないとしても、いじめ行為をされることについてはなんとか解決できるのでは、と考えた。
 そして取った方法が「一言も喋らない、なにもしない」だった。何がトリガーとなっていじめ行為が行われるのか、それを特定しようとしたのだ。
 その結果、毎日何も起こらなくなった。自分が何も喋らず、何もしなくなったその日から、毎日やられたいじめと思しき行為がぴたりと止んだのだ。
 その次の日もその翌日も、それから先もずっとそうだった。一度嫌われるとそれから先何をやってもウザがられるという事がわかった。
 そして、自分がいじめだと思っていた周囲の言動の数々は、嫌悪感からの抵抗だったことを理解した。
 楽しいはずの場面で自分がつまらない事をいって、台無しにしてしまった事に気がついた。周囲は私のそういうところに困っていたのだ。よくよく思い返してみればあれもこれも、最初から「いじめ」ではなく「注意」だったような気さえしてきた。つまり、注意しても私に通用しないので、言葉が乱暴になっていったのだ。私はそれをいじめだと思い込んでいたのだ。

 「一言も喋らない、なにもしない」という、たった一つのことをしただけで、いやというか、何もしなかっただけで、これだけの変化と情報を得る事ができた。
 静かで平穏な日常を得る事ができた。ゆっくりと心の整理をすることができた。
 
 いまクラスでいじめられているという人は、ぜひこれを試してみてほしい。

▼その2『就寝前にその日一日を回想し、翌日の課題を考える』

 寝る前はその日一日の全てを、できるだけ回想した。目を閉じて頭の中に、ムービーの様にして思い浮かべた。
 そうして記憶を辿ってみると、「あぁ、もしかしたらあの時のあの一言で相手は困ってしまったかもしれない」とか、その時は気づけなかったことに気が付く事ができた。
 それが終わってからは、明日の目標を立てた。大体は「今日より楽しく過ごす」だった。
 やっていたことはとても単純な事だったが、自分に言い聞かせる効果があったのだと思う。
 いじめの事があって落ち込んでいた感情面は、これのお陰ですぐに回復したと言ってもいい。

▼その3『オンラインゲームで積極的に人と交流をした』

 人間関係でいろいろあって高校を中退した私は、家業の飲食店で働いていた。
 そこで私は、今度はお客さん相手に困らせてしまっていた。自分の言動の事で怒られたこともあった。たぶんだけど、自分のせいで来なくなったお客さんもいたと思う。

 中学の頃に自分の非定型を自覚できたはいいが、そこからぜんぜん進歩できていないと、認めるしかなかった。
 数少ない友人たちとの交流を通して、もう一度人生を頑張ろうと気合だけは入っていたのだが、家業の仕事では朝から夜までが仕事で人と会う時間はなかなか取れず、売上少なくてバイトは雇えない。一日中親と一緒。
 とにかく他人との交流がないし、テレビを見る暇もないので、社会の情報も入らない、そういう生活の中でコミュ力を高める方法を探していた。

 そんな日々の中で、いつものように給料日にゲームショップに行ったところ、あるマシンが目に留まった。
 定価一万円になったSEGAの「ドリームキャスト」と、「ファンタシースターオンライン」という家庭用オンラインゲームソフトだった。


 人と交流がしたい――、外の情報を得たい――、と考えていた私にとって、ネットゲームをインターネット環境はベストマッチする方法だった。
 当時は今のようにネットに繋げて当たり前という時代でもなく、それから試行錯誤をしてなんとかネット環境を整えた私は、見事ネトゲデビューを果たした。

 前置きが長くなってしまったがここからが本題である。
 最初は普通に遊ぶ感じでプレイした。キーボードを使ったチャットにはすぐに慣れた。中学の頃は一時の間、パソコン部にいたから、タイピングは得意だったのだ。
 ゲーム好きが集まっている場所なので、会話のネタに困る事はなかったが、やはり私はどこで誰と遊んでいてもトラブルを起こした。仲良くなってから何日後に相手が怒る、というのがお決まりのパータンだった。

 どうすればそんなにも人を怒らせるのか、例えば「あはは」と返せばいいところで、文字枠一杯に「はははははははははははははははははははははははははははははははは」と送り返したり、語尾に「w」を付けまくって相手から嘲笑されてると誤解されたり、どこかで覚えたネットマナーを話して一緒に遊んでいる人を注意したり、急に下ネタの話をして引かれたりと、一緒に遊んでいても楽しめない言動を繰り返していた。語彙が無さ過ぎて、思いついた言葉を言うだけだった。

 コミュ障克服について、具体的な事を考えながらプレイしたのは、少し後になってからだった。オンラインゲームの世界にも慣れてきた頃、その環境の中での自分のポジションがわかってきた。「このままだとやっぱり俺はダメだ」という事は十分にわかった。

 私はまず始めに、期間を意識しながら遊ぶようにした。「積極的に人と遊ぶ」というスタイルの上で「一ヵ月間、誰ともトラブルを起こさない」という一つの目標から始めた。
 それが達成できたら次は二ヵ月、三ヵ月――と期間を延ばした。目標があったことで言葉遣いが慎重になったのだろう。トラブルを起こす頻度は減っていった。
 同時進行で、ネットの公式BBSや掲示板では思ったことを素直に書き込むことにした。何らかの注意を受けることも多かったが、逆に共感が得られることもあった。特に注意と共感が同時に来た時は、注意深く相手の意見を読み込んだ。
 三ヵ月間平穏に遊ぶ事が達成できた次は、ゲーム内のチームに参加したり、お店を開いて他のプレイヤーとアイテム交換をしたり、ホームページをつくったりして、いろいろな事に挑戦した。
 その頃には親しい友達もできた。でも基本的にはどこで何をしていても失言をしてしまう可能性がある事にかわりはなかったので、言動には常に注意を払った。
 そうして、確実に対人トラブルの頻度は減っていった。でも親しくなった後でいざそれが起こると、相手の怒りやその温度も相応に高くなる。付き合いの浅い内ではなく、友達になってから縁を切られる事はとても辛かった。

 そんなこんなで私はおよそ5年の間、家業にいた頃と一人暮らしをしていた頃は仕事をしながら、夜はオンラインゲームでコミュニケーションの訓練に費やした。19歳~24歳の間だったと思う。
 当時は自分の考え方や感覚の方に起きている変化や成長の事は、はっきりとわからなかった。「対人トラブルの頻度が減った、どうやら良い方向に自分は伸びているらしい」くらいの認識で、その流れをなんとなく追うだけで精いっぱいだった。

 オンラインゲームは基本、匿名でプレイするので、積極的にコミュニケーションをとることができる。対人トラブルを起こしてもキャラクターを作り変えるなどすれば、また次に挑むことができる。
 ほとんどのネトゲがそうだと思うが、チャットログも残るので、後でやりとりを振り返ることもできる。コミュニケーションの研究がとてもしやすいので、コミュ障克服に挑みたい人はぜひ取り入れてほしい。

 この時の体験が本当の意味で活きてくるのは、数年後だった。
 オンラインゲームの世界でコミュニケーションに慣れても、リアルの方では今一つな状態が続いていた。
 その答えは単純な事で、「会話はキャッチボールではなく、卓球のラリーのように忙しい」ということだ。

 ネットの世界のチャットやメールは、好きなだけ文章を読み返して、好きなタイミングで返答をつくればいい。
 対してリアルの会話はその一回で聞き取る必要があり、相応のテンポで返答をしないと会話が続かなくなってしまう。
 こうしてみるとわかるように、ネットの会話の方こそがどちらかといえばキャッチボールで、リアルの会話は忙しいラリーなのである。

 この違いに気が付いてから、自分に足りない感覚がわかった。それは会話についていく為の「速度」や「回転力」。
 だから後々になってから「もっとこう言えばよかった」と後悔する事があったのだ。

 会話の速度や回転力については、オフ会などに参加し、スピーディーなやりとりに加わる事で体得しようとしている。これは今まさに実践していることだ。

▼その4『日記を書きまくった』

 ドリームキャストでも簡単なネットブラウジングはできたが、表示できないページなどがあって不便だった。ドリキャスを買ってから半年後くらいにはパソコンをローンで購入した。
 そして最初に始めたことが「ウェブ日記」だった。当時はtwitterFacebookなどのSNSサービスはおろか「ブログ」などもなかったので、日記投稿用のサービスを利用してそこに書き込んでいた。
 「思った事、起きた事をありのまま書く」ことをテーマにした。だから文章量は膨大な量になった。夜の22時頃から書き始めてそれが夜中の2時~3時になる事もあった。
 私は日記を書いている間、「普通じゃありえないような事が書かれているからいつか騒ぎになる」と思っていたのだが、そんな事は一度もなかった。知られていないだけだと思って、2ちゃんねるで他人のふりをして書き込んだ事もあったけど、誰からの反応もなかった。
 当時の自分にとっては、滅茶苦茶な自分の人生こそがある種のステータスだった。でもそれすらも無価値なものなのだと思い知らされた。

 日記の"執筆"は毎日続いた。およそ4~5年ほど毎日書き続け、自分の考えている事を文章化する力を高めていった。
 「今日はよく書けた、今日は上手く書けなかった」という小さな感想は人の文章を読む時にも機能した。他者の書いた文章を読んで、「こんな言葉が、こんな文章が書きたい」と思えるようになってからはまた別方向からの目標ができるようになり、それらが進路となって私を導いてくれた。

 放浪の歩き旅をしている時もノートにペンで日記を書いていた。パソコンの時と同様、「一日の全てがわかるように記す」というハードな課題の日記だった。
 その日の野宿地と決めた街に着いてから、あとは寝るまでが日記の執筆時間だった。
 最初の頃は4~5時間かけて書いていたのだが、日に日に書く時間が短くなっていった。それは「こういうことは書く必要がない」という線引きが頭の中でできていった事や、より短い言葉で表現できる文章力が身に着いたからだ。

 その点の能力を高めてくれた感覚が「早く書き終わりたい」という気持ちがあったからだ。
 急いで終わらせようとしても、絶対に必要な事だけは忘れずにやるものだ。逆に、端から端まですべてが大事で必要だと認識している内は、本当に必要な事がはっきりとわかっていないのかもしれない。パソコンで日記を書いている時はそうだった。時間を意識せず好きなように書いていたから。

▼その5『積極的に人と関わった』

 何よりも大事な事がこれを意識することだ。
 コミュ障克服の為には、積極的に人と関わること。その上で様々な取り組み、検証をする。

 人に迷惑をかけろ、相手を実験に使え

 私はずっと自分にそう言い聞かせてきた。それができない奴には一生、コミュ障克服はできないと、誰に教わったわけでもなく確信していた。

▼まとめ

 コミュニケーションは今も苦手なことではある。同時に、得意なことだとも言えるようにもなった。少しだが、コミュニケーションの仕組みを言語化して話せるようになったからだ。

 コミュ障特徴の自覚を得てから今くらいの自信が身に着くまで、12~13年を要したと思う。これが遅いのか早いのかはわからないが、なんせ相手は、巷では「障害」と言われる特徴だ。ちょっとやそっとではどうにもならない。

 今の時代は発達障害の事が社会的に認知されているが、未だ私のように手探り状態の中で彷徨っている人は少なくないだろう。
 ここに記した事が希望となるか絶望となるかはあなた次第だ。

 では最後に一つだけ。


 どうか人と関わる事を止めないでほしい。


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